戦国武将の馬「木曽馬」とは?

かつての戦国時代の武士たちは、主にたくましい木曽馬に乗っていたことはご存知でしたか?当時の木曽馬は、現代のサラブレッドよりも、筋肉質のポニーのような見た目であったそうです。顔が短く、毛が長く、短足で、毛むくじゃらの見た目をしており、体高は120から140㎝でした。現代の騎手と同様に、武士も左側ではなく、右側から馬に乗っていたそうです。

中世ヨーロッパでも、馬に乗って戦いましたが、日本では戦いへ馬に乗って向かい、馬を降りてから戦っていた、ということがポルトガル人宣教師ルイス・フロイスによる文書で明らかになっています。

ただし、ルイス・フロイスの前で戦ったのは、関西(西日本)地方の武士だけでした。事実、関西の武士は、戦で戦う前に馬を降り、それから戦っていましたが、関東(東および北日本)の武士は、馬に乗ったまま戦っていたそうです。

馬に乗った武士は、戦いの際にしばしば敵に馬を突進させ、そのことで衝突が起こり、対戦相手がバランスを崩したり、場合によっては対戦相手を馬から落としたりしました。槍、弓矢、あるいは火縄銃を振う戦闘員の列に突進する際、時折、馬に乗った武士よりも馬が先に襲われました。

敵は馬に向かって発砲したり槍を振ったりして、その攻撃によって戦闘員も倒れることになるのでした。戦いの勝者は、敗者の馬を生きたまま押収し、自分の馬小屋に持って帰っていたそうで、この事実から当時の馬の重要性が伺えますね。

また、馬に乗った武士との対戦への対策として、多くの手段が考案されました。ポールウェポン、剣、こん棒、そして白兵戦に至るまで、何種類かの襲撃手段があり、これらの戦略には、剣で決闘の際には対戦相手の左側に立つことなどが含まれていました。これは、一般的な右利きの騎手であれば、打撃を回避したり交わしたりすることが難しく、殺しやすいため、馬に乗って戦っている場合は、明らかに有利に働いたのです。

馬に乗った武士に対して考案されたその他の策には、ヨーロッパの騎士のような馬上槍試合や柔道に関連する格闘戦術を馬に乗って行い、対戦相手を馬から落とそうとすることなどが含まれていました。

江戸時代初期のベストセラー小説『雑兵物語』では、関東および関西の武士の戦法の多様性について認めており、安土桃山時代(1500年代後半)から江戸時代初頭(1600年代)のころまでには、両者ともに騎馬戦の戦法を取り入れていたことに言及しています。関東を基盤とする武士との対決の際、関西の武士は馬に乗った敵とどのように戦えばよいのかわかりませんでした。このことで、関東の武士は敵に早く到達し、守備や反撃体制を整える前に斬ることができたため、精神的かつ軍事的な強みを持っていたそうです。

以前NHKが、短足でがっしりとした毛むくじゃらの原産の木曽馬を現代品種の馬と比べる試験を実施した際、ポニーのような木曽馬の方が予想よりも素早く、軽快な走りができることが明らかになりました。武士が採用した馬と同じ種類の純血種の木曽馬を見てみると、木曽馬は100メートルを12.03秒で駆けることができ、それは12.07を記録した現代品種のサワゴ馬よりもやや早い記録でした。

ちなみにですが、日本国内には約120頭しか純血種の木曽馬が残っていません。戦時の1930年代から1940年代にかけて、日本軍は力強くて丈夫な木曽馬を活用しましたが、その多くが終戦時に韓国や中国に置き去りにされたそうです。